家族への想い

10日前くらいからだろうか。

妻の様子がソワソワしているように感じていた。トイレが近いこと、何となく具合が悪いことを気にしているのには気付いていた。

ぼくの中にももしかしたらという思いがよぎっていた。

 

8月15日。

妻は妊娠検査薬を使った。

失敗した。

説明書もよく読まずに使ったらしい。妻らしいなと、呆れると言うよりは微笑ましく思った。

8月16日。

再度使ってみたところ陽性だった。

 

もともと2人は欲しいねと話していたが、計画では長女が3~4歳頃にというのがぼくと妻との共通理解だったし、今は長女が可愛くて可愛くて仕方ない。

2人目が産まれてくることでこの気持ちが倍になったら仕事なんかしたくなくなって毎日一緒にいたくなるだろうとか、半分になるとしたらちょっと勿体ないようにも思った。

そして、予定日頃にはぼくは独立して店をオープンさせているはずだ。

前は妻のことをなるべく気遣い、上手くやれていたかは分からないが自分なりにストレスのないようにと考えていた。

しかし、今回は状況が違う。

これから活発になっていくであろう長女、独立という人生をかけた挑戦とその準備。

2人で乗り越えた最初の出産とは訳が違う。

ぼくはぼく自身でいっぱいいっぱいになるのは目に見えている。

その中で妻は長女の世話をしながらの妊娠。

正直不安は前回より大きい。

いや、不安というよりも自分がどこまでやれるのか、自分が独立に向ける力と家族に向ける力をうまく配分できるのか。家族が増える喜びはもちろんあったのだが素直に喜ぶだけではなかった自分がいた。

そのことがぼくの心を重くした。

 

検査薬の結果を見て「出来てたよ」と言った妻は真っ直ぐに喜んでいるのとは違うように見え、それが自分のせいな気がしてひどく申し訳なく思えた。

素直に喜ばせてあげられていないことに気付いて、それは自分が素直に喜べていないからだとも思ったし、それはぼくが望んでいる家族の形ではなかった。

かと言って無理矢理喜ぶのも違う気がして妻を抱き寄せた時にやっと気付いた。

 

ぼくはただ、妻を、娘を、産まれてくる子供を思いのままに愛すればいいんだ、と。

娘が産まれて以来、軽いハグくらいはあっても本当の意味で気持ちを込めて抱きしめることは目に見えて減っていて、それは仕方ないことと思いつつも、どこか寂しさもあった。

色々な感情の中で抱きしめた妻は、付き合っている頃から、結婚してから、子供を産んでくれてから、いい意味で何も変わらない、ぼくの大好きなあの子だった。

何がそう思わせたのかは分からないが、そこにあったのはただの幸せだった。愛だった。

 

独立するのも家族みんなでもっと幸せな生活を、幸せな時間を過ごしたいと思ったからだし、経済的にも時間的にもこのままの状況では悪くなることはあっても良くなる可能性は薄いと思っていたからだ。

それなら一か八かであったとしても、家族と幸せに過ごせる自分でいられるようになろうと思ったからだ。

愛が全てを救うわけではないが、犠牲にしたくない愛を持っているし受け取っているからだ。

 

それでも、乗り越えなければいけないことは変わることなく存在していて、今までとはまた違う家族の試練でもあるのは間違いないだろう。

歩けるようになりますます目が離せなくなる娘。

妊娠して悪阻や大きくなるお腹と対峙しなければならない妻。

独立に向けて右も左も分からない不安とプレッシャーに溺れる自分。

ケンカやピリついた空気、笑顔になれない時間、そういうものも増えるだろう。

 

だけど、それもぼくら家族の歴史になり、次の子も一緒になって幸せが増えるための助走になるはずだ。

 

ぼくは妻と娘の笑顔が大好きでそのために仕事をして、そのために生きている。

それが見られなくなる瞬間が来ることに怯んでいたが、それも家族の時間。

そういう時間も一切合切まとめてぼくの愛する家族なんだ。

経験したことのない環境を家族4人が乗り越えなければならないが、その先には経験した事のないくらいの幸せが待っている。大切な新しい家族が待っている。

 

ぼくはそこまで4人を連れていかなければならないし、連れていく。

それが夫であり父であるぼくの使命であり、ぼくの人生の意味だから。

そして、4人になった家族で幸せを感じるためにもがきながら生きる。

例え上手くいくことばかりではなかったとしても、それがぼくら家族なんだから。